音価

ひとつの打音には始点と終点があります。

その音の長さが音価です。

ドラムの音はたいていは叩けば音が出て、そのままにしておけば音が消えていきます。

タイコ類、シンバル類ともに叩いたあとでミュートすれば音は消えます。

でも、両手がふさがっている状態で
叩きつつミュートするというのは実際には難しいです。

ブラシでスネアをこする場合は、音価の調整が可能です。
なのでブラシは独特の表現力があるのですね。

シンバル類は演奏中に叩いた瞬間にミュートする奏法をよく使います。
タイコ類と比較するとミュート効果がハッキリしています。

そして、スティックを使って演奏する場合に一番音価を表現できるのがハイハットです。

ハイハットは左足で音の長さを演奏中にコントロールできる画期的なシステムです。

タイコ類はミュートする方法や、エフェクトで長さを調整する方法があります。

あとは自然に全体の音に溶け込んだ時にマスキングされて良い感じになるようにイメージすることです。

スネアを叩くタイミングにタムやフロアタムを同時に叩くと、タム類の余韻が長いお陰で
スネアの音まで長くなったような印象を与えることができます。

手軽に出来る音価コントロールなので、私はよく使います。

叩き語り

弾き語りといえばギターや鍵盤を弾きながら歌うスタイルがすぐに思い浮かびます。

このスタイルの方は多いです。

そしてベースを弾きながら歌うスタイルも数はそんなに多くないですがいます。

hidekaさんもそのスタイルです。

そして私が目指すところはドラムを叩きながら叩く、叩き語りスタイルです。

このスタイルも数は少ないですがいます。

ドラムと歌、別々だったら出来ることなのに、同時にやると上手くいかなかったりします。

練習が足りないのでしょうね。

なんとか普通に叩き語りスタイルが出来るようになりたいです。

ドラムはメロディを出さないので、ドラムに音程を惑わされる要素はないはずですが、どうも音程が揺れてしまいます。

もしかするとモニター方法にも工夫が必要なのかも知れません。

スタジオなどで大きな音を出している中で音程を合わせる訓練も必要になると思われます。

やってみたいことが山積みです。

ディレイ・エコー

やまびこ、子供の頃とても感動したのを覚えています。

自分の声が反射して何回も聴こえてくる

こんな不思議な自然現象があるのだ

と何度も遊びました。

これってディレイですよね。

またお風呂の中、特に広い銭湯とかに行くとタイルに音が反響して歌が上手く聴こえる気がします。

何かを落としたりするとちょっと大げさなくらいに大きな音がします。

これってエコーですよね。

ディレイとかエコーは、こんな自然現象を電気的に起こすことができるようになったものなのですね。

先日hidekaさんのスタジオで
作曲途中の音源にいくつかの音を加えるプロセスに参加させていただきました。

ドラムを叩くのは無条件に好きなのですが
音をひとつだけ加えて、それを加工するというのもかなり楽しいと実感しました。

まだ自分では作曲ソフトを扱えないのですが、できるようになれば楽しみが広がりそうな予感がしています。

色々とやりたいことがあって楽しい
今日この頃です。

オリジナリティで悩む人たちへ

音楽など、アーティストが作る作品にはオリジナリティが大切だということはよく言われることです。

でも、オリジナリティがなければならないと考え過ぎて作品を出せなかったり、
オリジナリティあるプレイにこだわり過ぎて作品を演奏できなかったりするのはとてももったいない事だと思います。

世の中、人と人はただ生きているだけでも影響を与えあっています。

他人との関わりなしで生きている人間はいません。

そんな環境において、何の影響も受けていない純度100%の作品やプレイはほぼ0だと思います。

影響を受けつつ、それを消化して、自分のフィルターを通して表現する活動

それがアーティスト活動です。

古いものに独自の視点で細部に光を与えたり、違う角度で捉えたり、違う何かを加えたりする事によってオリジナリティが表現されます。

しかも、他の誰かではない、
その人がやることに最も意味があります。

なので、オリジナリティを作ろうという意識はそれほど重要ではなく、
作り続けたり、プレイし続けることのほうが重要なのです。

全ての根源は想像力

楽器演奏をするうえで、想像力がいかに大切なものかは、楽器を演奏する方なら誰もが実感しているところですね。

出された音に対して全体の流れを踏まえたうえでどう反応するか

フレージングの極意はそこに尽きるでしょう。

ただ、想像力とは言っても全くの無のところからフレージングするのは余程の事がなければ困難です。

好きな音楽であったり、何らかの影響を受けた音楽が下地となって、そこから想像力を膨らませることになります。

誰にも影響を受けていない、聞いたことがない斬新なフレージングは確かに魅力的ですが、
それが生まれるのを待っていたら人生が終わってしまいます。

自分なりにやり続けていくことで、自然に出てきたものに従うことは
想像力そして創造性を磨き続けることにつながります。

そして想像力を磨くには、普段から想像癖をつけることです。

私は音楽を聴きながらも、そこに入っていない音が聴こえているような感じになることがよくあります。

コーラスなんかも、頭の中では鳴っていたのに実際に聴いたらそんなコーラスは入っていなかった
なんてこともありました。

想像の良いところは、自由なところです。

頭の中のことは表現しない限り伝わりません。

だから逆に表現したいときは頭の中にあるものをどういう形でどこまで表現するべきかを考えます。

そこに共感してくれる人は必ずいるはずです。

想像力が豊かなアーティストに出会うと、そのアーティストの想像力の泉を見てみたいと思います。

そんなアーティストがサクサクと作曲している姿を見るのはとても心地よいものです。

日々想像力を鍛えたいと思う今日この頃です。

人それぞれの表現

人の性格は十人十色、人の数だけ性格があります。

10人がドラムを叩けば10通りの表現があるということです。

フレーズが同じでもその人のフィルターを通して、その人の解釈で叩けば違う音が出ます。

しかもその時のコンディションや使用する楽器によっても違う表現になります。

コンディションや使用楽器の選択も含めて、その人のオリジナルの表現です。

気持ちを込めることも個性です。

落ち着いた気持ちで叩くのと、激しい気持ちで叩くのとでは
当然出てくる音が違ってきます。

同じ気持ちを表現するにしても、それぞれの表現があります。

フレーズの話ではなく、聴こえ方や受け手に与える感情が違ってきます。

皆それぞれに心の中に歌を持っていて、それを楽器を通して表現しています。

だから歌心のあるドラムが良いと言われるのですよね。

歌のバックとして最適だから歌心のあるドラム
ということではないのですよね。

自分の歌を持ちつつ、演奏する楽曲のため全体を聴かせる

という全体を俯瞰する姿勢が必要とされるのですね。

スランプへの対処

スランプとは
継続して何かを行なっているにも関わらず、ある程度のところで行き詰まりを感じたり
後退してしまったように感じることです。

私も何度も経験しています。

いつも練習しているのに、なぜか超えられない壁が出てきます。

そんなとき私は、まずその壁が乗り越えるべきものなのか、というように考え方を根本から見直してみます。

代替手段は結構あるかもしれません。

代替手段を適用するのが嫌だとしたらひたすら練習すれば良いのでしょうが、
自分の中のこだわりを大切にするばっかりに気を取られて全体が見えなくなってはいないか考えてみます。

全体にとってやはり必要だとなれば必死で乗り越えなければなりません。

でも、どうしてもこのフレーズができるようになりたい、というだけならただのエゴです。

自分の都合を優先させられるのであればエゴを追求するのも良いかも知れないですが、全体との調和を考えて結論を出すのが誠実だと思います。

一人のスランプで全体に影響を与えてしまうのは、私なら避けたい事態です。

方法はひとつとは限らない

そう考えていくと気分も軽くなるし、エネルギーを注ぐべきところに注ぐこともできるようになります。

スランプに陥ったと思ったときには
是非考えてみてください。

役割と経験

人にはそれぞれ与えられた役割があるはずです。

私がドラムをやっているのも偶然ではなく、そういう役割なのだと思います。

そして人生の中で出会う人には、その人達の役割があり
影響を与えたり、受けたりするのです。

ある人の人生がより良くなるための役割を果たし、自分の人生も良くするのです。

もちろん未来は枝分かれしており、どれを選ぶかは自分次第です。

自分で枝を作ることさえできます。

その場合でも必要な人が現れ、必要な事が起こるのです。
私が今まで音楽で関わってきた多くの人たちを振り返ったとき、
どの人もそのときに必要だったのだと思えるようになったのでこんなことを考えています。

不思議な話かも知れませんが、当時嫌だったことも
いま考えると必要だったのだと思えます。

自分も関わる人達の人生の中で何らかの役割を果たしているのですよね。

全ての経験を音に変換したいです。

音楽の力

音楽から感じ取るものは人それぞれです。

僕はどんなときでもその時に聴きたい音楽を聴くようにしてきました。

特に贅沢したりすることはありませんが、音楽に関しては自分に贅沢を許しています。

私にとっては気持ちが揺れるとき、癒してもらえたり、気付かされたりするものが音楽です。

歌詞から直接何かを受け取ることもありますが、多くは曲そのものやメロディから何かを受け取ります。

作り手側が込めた世界観そのものに入り込むこともあれば、
曲を聴きながら勝手に連想した世界観に入り込むことも自由です。

自由に世界観に浸るとき、作品は作者の手を離れて成長しています。

長年同じ曲を聴いていたとしても、その時の自分の在り方によって曲の聴こえ方が違ってきます。

なので私は好きな曲を繰り返し聴くことが好きです。

アーティストの方に、こんなに私が好きになれる曲を作ってくれてありがとう、と伝えたいです。

だから、微力ながらも支えてあげたいと思います。

支えてあげられたら素敵なことだと思います。

静寂のなかで

静寂のなかで考える。

 
静けさを忘れていた。

 
無音に包まれる幸せ

無音に包まれる不安

これらは同時に現れる。

無音に耐えることができた時

音が存在することに感謝の念が芽生える。

一音の存在感を実感する。

ふと、楽器は声の模倣から始まったということを思い出す。

かすかに聴こえる鳥のさえずり

これも楽器をインスパイアさせる。

感覚が研ぎ澄まされたとき

この感覚を忘れたくないと思った。